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ハシズムの危険

橋下徹はヒトラーになれるか?

橋下徹の政治手法を「独裁」と呼ぶのは止めよう。それは「恐怖政治」と呼んでよい。

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5 Apr 2012

保守派からの不安

ここへ来て保守派からの橋下徹に対する危機感の表明が相次いでいる。

「政党政治が駄目だということで昭和10年代に日本で軍部が出てきた。ヒトラー、ムソリーニが出てきた時もそういう雰囲気だったのだろう。」 「軍部やヒトラーらが出てきたのは、既成政党や議会政治では物事を処理できないと多くの国民が思った時だった。」 (谷垣禎一 自民党総裁: 橋下徹大阪市長率いる「大阪維新の会」の国政進出に期待が高まる政治状況について、2012年3月18日 京都府内での講演で)

この危機感は橋下徹と彼が率いる大阪維新の会の地方選挙での躍進とともに、橋下の以下の言動にも基づいている。

「今の日本の政治に必要なのは独裁」 (橋下徹: 2011年6月29日 大阪市内のホテルで開かれた自身の政治資金パーティーで)
「選挙では国民に大きな方向性を示して訴える。ある種の白紙委任なんですよ」 (橋下徹: 2012年2月18日付 朝日新聞インタビュー)

これにあの読売のナベツネが噛みついた。

「私が想起するのはアドルフ・ヒトラー。ヒトラーは首相になった途端『全権委任法』を成立させ、これがファシズムの元凶になった。非常に危険な兆候だと思う」 (渡辺恒雄 読売新聞会長・主筆: 『文芸春秋』2012年3月10日発売4月号)

メディア王への反論

メディアを牛耳る読売の総帥ナベツネ、あんたには言われたくないというところだろう。橋下の反論。

「ヒトラー独裁のときの統治機構・メディアの情況(そのまま)と今のそれを比較して独裁云々を論じなければならない。今の統治機構において権力は完全な任期制。そして公正な選挙で権力は作られる。これだけでいわゆる独裁は無理。さらに何と言ってもメディアの存在。日本においてメディアの力で権力は倒される。」 「渡辺氏の方が読売新聞社だけでなく政界も財界も野球界も牛耳る堂々たる独裁じゃないですかね!」 (橋下徹: 2012年2月18日 自身のツイターで)

たしかに、橋下はマスコミの寵児でもある。その飼い犬に手を咬まれかねないという危機感をナベツベは感じたのだろう。 さて、ヒトラーらが出てきた時代は、現在の日本の状況とはどのくらい違うだろうか。 ヒトラーは世界最先端の民主主義憲法の下で、時の政情不安を背景に選挙を通じて政権にのし上がった。 中間派も巻き込み成立した『全権委任法』は4年間の時限立法だった。その独裁は幾度かの国民投票で裏付けされている。

ヒトラーの時代と戦前の日本

谷垣氏の言う通り、昭和初期の日本では総理大臣が毎年のように入れ替わっており、政党政治の行き詰まり感があった。 同時代、ヒトラーが台頭するころのドイツも短命の内閣が続いた。確かにいまの日本と似ている。

ここで注意したいのは、ヒトラー台頭の時代と戦前の日本は似ているものの、大きく違う点が一つあること。 この時代は第1次世界大戦の後だが、ドイツはこのとき敗戦国となった。忘れがちだが日本は第1次大戦では戦勝国だった。

敗戦後のドイツ

第1次世界大戦はドイツの敗戦で終わった。この時代を年表にしてみる。

ワイマール体制

大戦末期の1919年に制定されたワイマール憲法は当時の世界最先端の民主的憲法だった。 議会は穏健左翼の社会民主党が常に第1党を占めていたが、カトリックを支持基盤にした保守中道の中央党、リベラルのドイツ民主党などの連立政権が続いた。「ワイマール体制」と呼ばれる。 しかし高揚する労働運動、極右、極左のストライキや暴動が頻発、政情はいつも不安定だった。

世界恐慌と政権の不安定

1929年、ウォール街(アメリカ)から始まった金融恐慌、および経済後退は世界的な規模で各国の経済に波及した。 大戦後の賠償金に喘いでいたドイツも一時(1924年〜)安定期があったのもつかの間、大量の失業者が街に溢れた。 社会民主党首班の連立内閣が倒れ、大統領指名による右派少数連立内閣が作られる。 しかし大統領(大戦を指揮した軍の総帥)と議会(穏健左派が多数を占める)とのねじれの中で、うまくいくはずもなく、短命内閣が続く。 戦後民主主義、すなわちワイマール憲法下で政権を担当してきた既成政党(ワイマール体制)と、議会政治総体に対する批判、不満は募り、 極右、極左のグループが台頭した。

ナチスの躍進

ナチスの旗

中でも国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は1930年9月の総選挙で第2党となる大躍進をした。 ナチスはドイツ国民困窮の原因はマルキシズムとユダヤ(金融資本や戦争で私腹を肥やしたものたち)、それに操られるワイマール体制にあると宣伝したのだった。 また、戦勝国がドイツに与えた仕打ち(取り上げられた領地、過酷な賠償)に対し、ドイツ民族の団結を鼓舞した。

1930年のナチス躍進の前触れには、テューリンゲン州での躍進と州政府への入閣があった。 テューリンゲン州政府へはナチスから治安と教育を司る内相兼教育相を送り、後のナチ党政権の政策の先駆けとなる政策を行った。 すなわちワァイマル共和政シンパをテューリンゲン州警察から排除、反戦映画の上映禁止、反ユダヤ主義プロパガンダの後押しなど。

最後の総選挙と全権委任法

1933年1月30日 ヒトラーが内閣首班に指名されると、ヒトラーは新内閣の「信任投票」と称し直ちに国会を解散。これがワイマール共和制最後の総選挙となった。 選挙中に国会議事堂放火事件が起こった。ナチスの陰謀説、あるいはオランダ人元共産党員の単独犯説があるが、ともかくナチスはこの事件を最大に利用した。 3月5日投票の結果、ナチスは議席を増加させたものの、過半数には満たなかった。 連立与党の中央党との合計で過半数。 だが、憲法に抵触する『全権委任法』の成立には 2/3が必要だった。 国会議事堂放火事件を口実に共産党 81人の議席を剥奪。他の中間政党は懐柔や脅しにより、ナチスの軍門に降った。

一つの民族、一つの帝国、一人の総統

『全権委任法』とは、議会によらず政府が法律を制定できるもの。 共産党 81人はすでに議席を剥奪され、社会民主党も 26人が拘禁されていた。賛成 444票、反対は(拘禁を免れた)社会民主党 94票のみだった。 これは4年間の時限立法だったが、その後ナチス一党独裁「一つの民族、一つの帝国、一人の総統」(ナチスのスローガン)まで半年もかからなかった。


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