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2 Aug 1999

『嫁入りアンデパンダン展』の何が問題とされたのか?

1999年5月22日、新川氏の結婚パーティを機に、「嫁入りアンデパンダン展」が開催された。 この運営と広報をめぐって私(シノバーのマスター)は疑義を投げかけるとともに、 刃物屋いとう氏がこの感想をwebに掲載したことを受けて、この展覧会を「批評」することの問題点についても指摘した。 その後関係諸氏の間で討論が交わされ、ある程度の相互理解とともに、私の指摘した問題点のいくつかも改善されていちおうの落ち着きを見た。 しかしながらいまだ消化不良の部分も残っていると思われるので、この問題での私の立場と主張をここに改めて整理して示しておこうと思う。

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各関係者の問題意識

同展が招待客しか入場できなかったにもかかわらず、「嫁入りアンデパンダン展ホームページ」でそのことが明示されなかったというのがそもそもの発端である。そのことがどういう問題を持っているかについて関係者の問題意識が異なっているように思われる。私の理解する各関係者の見解を以下に掲げる。

  1. 主催者側
    同展が公開であるかどうかは同展の性格を大きく変えるものではなく、大した問題ではない。 しかし公開と思って会場に足を運んだ人が実際にいることは問題で、S氏には謝罪した。 公募条件にも明記しなかったが、応募してきた人には説明し、了解してもらったのでトラブルはない。
  2. 刃物屋いとう氏
    公開であってもなくても展覧会は展覧会であるので感想を掲載してもよい。 しかし批評の構造が異なるという指摘にも一理あるので非公開であったことは明示すべき。
  3. 私(シノバー
    公開であれば展覧会と呼べるが、招待客しか入場できないのであれば内見会あるいは(この場合)結婚式の余興である。 公開でないということは批評もあらかじめ偏っており、まして結婚式の余興であれば否定的評論が許されない構造を持っている。 したがって一般の展覧会とは根本的に異なり、並置して扱われるべきではない。

内見会あるいは結婚式における批評の構造

招待客のみの「展覧会」(内見会と呼ぶほうが正しい)の場合、その批評は主催者側がコントロールできる。たとえば否定的評価を下すだろう人はあらかじめ排除しておくなどが可能なのである。 結婚式の招待客というのはその典型的なものだろう。 さらに結婚式の場合、否定的な言動は社会的に排除される。 結婚式に対して、またそこで行われる余興に対して否定的な評価はおろか真面目な評論、たとえば「誰それのは上手だったが、こちらはいまいち」などの論評をすることすら無粋とされる。 新郎新婦は常に素晴らしいカップルであり、宴で余興をやる人たちは上手い下手はあっても最大の善意でこのめでたき宴を盛り上げるべく頑張った者として拍手を受けるべきことが保証されているのである。

読売アンデパンダン展との類似

アンデパンダン展は専門、非専門、有名、無名を問わず全ての人々に美術の門を無制限に開放し、それによって制作と鑑賞の自由を獲得せしめんとするものでここには如何なる党派も因縁も情実もなく、あるものはただ実力である。 この企てが進歩的な識者はいうに及ばず真の民主化をこそ望む大衆の共感と協力を得るであろうことを確信するものである(読売新聞1948年9月26日号より)

 これは『嫁入りアンデパンダン展』開催にあたって主催者の新川氏が引用した部分である。 それまでの公募展は審査員によって選別され、それを通過しないものは展示されない。 読売アンデパンダン展は無監査であり、誰でも出品、展示してもらえる。 『嫁入りアンデパンダン展』も無監査であり、これを踏襲している。

無鑑査、自由出品が目指したもの

 しかし読売アンデパンダン展が目指したものはそれに止まらない。 作品の評価は審査員に独占され、一般大衆はただその結果を受け入れるというそれまでの構造を、 「無鑑査、自由出品」ということによって大衆にその評価を委ねたのである。 『嫁入りアンデパンダン展』は入場を制限するという点で、また批評を許さないという構造の点でまったくかけ離れたものとなっている。
 もちろん『嫁入りアンデパンダン展』が『読売アンデパンダン展』と同じである必要はないし、 「嫁入りアンパンは嫁入りアンパンでありそれ以上でも以下でもない」(同展事務局:黒沢氏) しかしその本質的な違いとなる公開の有無については明示すべきであるというのがシノバーの意見である。

批評できないものを批評するということ

 「この展覧会には賞もあります。」(同展ホームページ) 否定的評価ばかりか真面目に論評することすら許されぬ結婚式の余興において賞を出すということも「余興の一つ」(主催者:新川氏)であるなら問題はない。 その感想を述べることも自由だが、それを一般の展覧会と並置して掲載することは 展覧会や作品の評価というものをあいまいにするということでシノバーは抗議した。 展覧会に出品するということは評価を世間に問うものであるというのがシノバーの意見である。 「他人の評価なんか気にしない」という立場もあろうかと思うが、少なくとも感想や批評というものはそういう前提でなされるべきものであると思う。
 そもそもこれが批評を受けるべきものであったのかを曖昧にしておいて「良かった、悪かった」を述べることは公正な態度ではない。

余談だが、「結婚式に刃物は縁起が悪い」というのは違うと思う。刃物は魔除けとして新婦の和装では必ず懐に差しておく

展覧会歴について

 『嫁入りアンデパンダン展』への出展を自己の展覧会歴に書いて良いかどうかという出品者からの問いに対し主催者側は「もちろんOKです」と答えている。また実際に一部の出品者は自己の展覧会歴に『嫁入りアンデパンダン展』への出展を書き加えている。 これも自由と言えば自由だが、 アーティストが書く展覧会歴が何であるのかについてひとこと述べておきたい。
 アーティストが書く展覧会歴は就職のさいに書く履歴書と同じで、それにより自分をアッピールし、ある程度に評価、判断をさせる資料である。 受賞歴や審査のある展覧会への出品はそれで直接作家のレベルを判断する材料になる。 無監査の展覧会では作品のレベルを示すことにはならないが、 少なくとも世間に対し評価を問う覚悟で作家活動を行っている証となる。 「趣味で絵を描いています。」とか「家族や友人は私のことを絵が上手いと言って誉めてくれます。」というのとは決定的に違うのだ。

なぜシノバーが文句を言うのか

 私はこの展覧会に出向く予定はなかったし、出品するつもりもなかったので、実害を被ったわけではない。 またこの「展覧会」が公開でなく関係者だけで行われようと、人様の結婚パーティーが何をしようがいっこうに構うものではない。 問題にしているのは、出品は民主的に、しかし鑑賞も評価もクローズというこの奇妙な「展覧会」が『読売アンデパンダン展』にちなむ公募展の顔をして公募、告知されたことである。 われわれ部外者はもちろん参加者の多くもこれが公開であると思い込んでいたという。 6月22日にリニューアルされた当の『ホームページ』は、これが結婚パーティーの一部であるとの印象を受けるものになっているが、 「同時開催―無鑑査、自由出品―嫁入りアンデパンダン展」との記述は、これが公開であったか非公開であったかを不明確にしたままである。
 現代のアートの状況がよく分からないということのひとつに、いろいろの作品が発表されているが、それをだれがどう評価しているのか見えないということがある。企画者の在、不在。企画者が居てもどこまで責任を負っているのか分からないもの。これらが明示されず混在している。 また発表後の評論の問題もある。 このことについてここで詳しくは論じないが、 そういう問題意識のもとに、これらを明確にすべきであるとの考えが基調にあることも書き添えておきたい。

2 Aug 1999
M.Shino, The Bar Master,
Shino's Bar - Contemporary Art and Spirits

事実経過

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