村はずれの地蔵

江戸時代、堺旧市街から百舌鳥へは、西高野街道か上神谷街道を通っていた。上神谷(にわだに)街道は堺旧市街から上神谷の妙見さんを経て河内長野市内で天見道に接続する。

東上野芝2丁にあるコンビニと西友の間の交差点は三叉路で、信号から斜めの道は泉北1号線への抜け道として交通量が多い。微妙に曲がっていて見通しが悪いにも関わらずスピードを出す車がいて、事故も起きている。

微妙に曲がっているというのは、昔からある道に違いない。調べてみるとこの道は、上神谷街道の一部であることが分かった。その証拠は歩いてみると分かる。

コンビニ前の信号からから斜めの道を南に歩いてみる。陽だまり保育園の前を通り、百舌鳥川を渡ると泉北1号線が行く手を阻む。左折し東へ少し歩き、信号で1号線を渡る。渡り終えたところ右手に立派な祠が見える。西大道地蔵である。

祠の裏手に石柱が立っている。これは道標で、側面に「右 妙見道」とある。「妙見」は上神谷の妙見さん(堺市南区)のこと。百舌鳥の人々はこの街道を「西大道」と呼んでいたらしく、この道が西の境界となる。この地蔵が百舌鳥の南西境界を守っていたのだろう。

上神谷街道は大仙公園内にも残っている。公園内の池の西、T字路に祠があって「身代わり地蔵」とある。その横に、西大道地蔵で見たのと同じ道標がある。こちらの地蔵も百舌鳥の境界を守っているのだろう。

ここから百舌鳥の集落へ向かう道があった。
今は公園内で消えているが、祠の北辺を起点に池の南岸をなぞり、阪和線の小さな踏切に至る。踏切を渡ってまっすぐに進むと、西百舌鳥小学校へ、あるいは途中からの分かれ道は百舌鳥八幡宮へと続く道となる。


Posted on 24 Aug 2018, 22:59 - カテゴリ: 百舌鳥
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百舌鳥精進

地元のモズ日本共産党後援会ニュースやFacebookに連載した記事。せっかくなので、ここにまとめて置いておく。
第1弾は百舌鳥精進(もずしょうじん)

百舌鳥(堺市北区)の旧家では、おせち料理に肉や魚を入れない。いわゆる「百舌鳥精進」。このような風習は他所ではあまり見ない。その謂れを調べると、3つ見つかった。

1) あるとき疫病が流行り、八幡さまがそれを救ってくださった。
2)むかし井戸を掘っても赤い水しか出なかった。弘法大師が清くしてくださった。
3)御廟山は立ち入り禁止だったものを、ある男が薪を採ろうとして堀を渡ったので、山の主である八幡大神がお怒りになった。

これらのうちいずれが本当か詮索するのは野暮で、いずれも古くから伝えられて来たものだろう。いずれの言い伝えも平安時代ごろに遡りそうだ。

百舌鳥精進には正月三ヵ日生臭ものを食べないばかりでなく、家に篭もって外出を避けるとか、訪問客とも喫食を同じにしないなどの風習が伝えられているところは、1の疫病の話がもっともらしい。外来者が疫病などの災いをもたらすことは、どこでも昔から恐れられている。百舌鳥では村の西境界2箇所で地蔵が祭られている。

2の「井戸の水が赤かった」とは、百舌鳥赤畑町の地名由来として魅力的だ。弘法大師が水を清めたという話は各地で伝えられている。1、2ともに助けてくれたのは八幡さまであったり弘法大師であったりする。明治に神仏分離されたが、昔は神仏習合、奈良時代には「八幡大菩薩」を自称していたくらいだから、神か仏かどちらでも良かったのだろう。

3は1、2と比べ、少し毛色が違う。これは御廟山が応神天皇陵だとの伝承と、応神天皇は八幡大神でもあるということから来ている。ほかの古墳と違って御廟山は大きな楠が生い茂る森となっており、この山の禁秘が古くから守られていたことを窺がわせる。宮内庁は古市にある誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳を応神陵としているが、百舌鳥の御廟山古墳も陵墓参考地としている。

1)2)折口信夫 三郷巷談 大正2年
3)柿澤和代 堺おもしろ話 其の1 堺観光ボランティア協会 2015

Posted on 23 Aug 2018, 20:06 - カテゴリ: 百舌鳥
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3.11以降の日本

2011年3月11日は、日本の大きい画期になった。未曾有の大震災に加えて原発の重大事故。全電源喪失というニュースを聞いて、たまたま直前に吉井英勝氏の著書を読んでいた私には、人類がまだ見たことのない悲惨を予見できた。そして、その後の経過は恐れていたとおりの事態となった。

3.11以降の日本が、それまでとは大きく違ったことに私は気付く。大勢の若者が救援ボランティアに参加するなど、私たちの絆が深まったこと。原発に関して私たちはずっと騙されていたことに気づいたこと。ネットなどを通じて若者たちが自ら組織し行動を起こすようになったことだ。

原発推進勢力がいかに策を講じようと、国会を取り巻く再稼働反対の声に押し切ることはできず、原発ゼロはいまも続いている。


(2014年8月30日、国会正門前・しんぶん赤旗)

いま日本は、平和国家から戦争国家への大きな曲がり角にある。隣国からの脅威を煽りながら、それとは関係ない戦争に首を突っ込もうとする。日本が攻撃を受けていなくても、日本の周辺でなくても、地球の裏側まで自衛隊を送ろうというものだ。

「政府には国民の生命と財産を守る義務がある」と言う。どこかの国が攻めてくるかもしれないという空想よりも、この国でもっとも起こり得る危険は自然災害であり、原発の脅威だ。

たとえ自民党、公明党が国会で多数であっても、反対する国民の大きな声で包囲すれば、戦争法案を止めることが必ずできる。お上のやることに黙って従う、もうそんな国民ではなくなっていると、私は信じる。

Posted on 28 Jun 2015, 11:16 - カテゴリ: 政治
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自衛隊の主任務

20年前の阪神淡路大震災で自衛隊の救援活動はスムースにいかなかった。自衛隊の災害派遣は県知事の要請がなければならない。しかし県知事自身も自宅で被災しており、県庁に行けない状況。要請には時間が掛かった。

正式要請も無く防衛大臣からの命令も無い中、伊丹駐屯地は連隊長の判断で出動、阪急電車伊丹駅へと向かった。列車は脱線し、駅舎は1階部分が完全に崩壊していた。この光景を目の当たりにし、隊員たちは呆然と立ち尽くした。


(写真:崩れた阪急電鉄伊丹駅駅舎と脱線した阪急電車=1995年1月17日、兵庫県伊丹市/時事通信)

震災後のテレビ番組で、自衛隊による救援活動が十分でなかったことが話題となった。コメンテータたちの吊し上げに遭い、自衛隊の広報担当者も最後にキレて、こう叫んだ。

「崩壊した建物のガレキが積み上がっている、あの状況下で救出活動をしろと言われても、私たちにはそのための機材もありませんし、そのような訓練も受けておりません。」

そう。みんな都度かってな解釈をしようとするが、災害派遣は自衛隊の主務ではなく、あくまで例外。

自衛隊は人を殺すのが主任務で、人の命を救うことではない。

関連記事:
「国防軍」より「広域消防隊」
餅は餅屋

Posted on 17 Jan 2015, 16:56 - カテゴリ: 国防軍
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ある宗教政党の自殺

ヒトラーが首相になって最初に行ったことは何だったか、知っていますか?

1933年、首班指名を受けたヒトラーは、組閣の直後にいきなり国会を解散、総選挙に打って出る。いわく「新内閣の信任選挙である」と。

組閣されたばかりで、実績もなにも分からない中での「信任」選挙。選挙中はもちろんさまざま謀略が仕掛けられた。にもかかわらず、この選挙でヒトラー率いるナチス党は過半数に届かなかった。引き続きドイツ中央党の助けが必要だった。

それでも憲法に抵触する問題で必要な2/3には足りない。その事態も中央党の協力を得る画策で、いわゆる「全権委任法」を3月に可決する。

中央党はなぜにそこまでナチス党に協力したのだろう?

ドイツ中央党はカトリック信者に依拠する保守的党派だった。当時のスターリン指導下の共産党より、それに敵対するナチスのほうが、「まだまし」と、思ったかもしれない。ユダヤを迫害していたナチスだが、カトリックには手を付けないという密約があったのだろう。それは、その後いわゆる「政教協定」として明らかになる。



「全権委任法」により、国会の議決を経ずに政府が法律を施行できるので議会は用なしになる。全権委任法の議決は議会の自殺行為だった。それは同時に政党の自殺行為でもある。

同年7月、ドイツ中央党は解散。すでに共産党や社会民主党は禁止されていて、ここにナチス1党独裁は完成する。

翌年の1934年、 ヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは首相と大統領を兼ねる総統となる。同年8月19日の国民投票は、90%の賛成でヒトラーの地位を確認する。

関連記事:
ワイマール憲法が死んだ日
橋下徹はヒトラーになれるか?

参考リンク:
「民主的方法」によるナチス独裁への道のり

Posted on 8 Jan 2015, 14:12 - カテゴリ: 右傾化とハシズム
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