Shino's Bar Private Room マグダラのマリアを訪ねてMagdalene

どっちがどっち?

レオナルド・ダ・ビンチの『岩窟の聖母』は2枚ある。 同じような図柄の絵が複数あるのは珍しい話ではない。 それよりも、この絵の注文主との間にあったトラブルのほうが有名かもしれない。 トラブルは支払いをめぐってのもののようだが、いろんな取り沙汰がされている。

その注文主とは「聖母無原罪の御宿り信心会」であった。 聖母子が岩窟に描かれるのは、外典である『ヤコブ原福音書』の説話にもとづいており、 「聖母無原罪の御宿り」の信仰の由来としては自然である。 異説には、『マタイによる福音書』にもとづき、ヘロデ大王の幼児虐殺を逃れて、エジプトへの逃避行(マタイ2:13-15)の途中で身を寄せた岩窟での情景だとするものもある。 依頼は岩窟に聖母マリアと幼子イエス、洗礼者ヨハネと大天使ガブリエル(大天使ウリエルであるとする説もある)を描いて欲しいというものであったという。

トラブルになった絵はどっち?

その2枚のひとつ(左)は現在ルーブル美術館に、もう1枚(右)はロンドンのナショナルギャラリーが所蔵している。 注文主とトラブルになったというのはどちらの絵であろうか? ダ・ビンチは依頼にもとづいて、最初ルーブル版を描いたが、注文主が受け取りを拒んだため、 代わりにロンドン版を描いて納めたとも言われる。 そうではなくて最初からロンドン版で揉めていたかもしれないし、本当のところは謎である。 いずれにせよ最終的には1508年、ロンドン版が注文主に納められ、ミラノにあるサン・フランチェスコ・ グランデ聖堂の祭壇を飾った。 ルーブル版の注文主や経緯は不明だが、 1625年にはフォンテンブロー宮殿に飾られていたという。

イエスはどっち?

2つの絵の違いを探すのは後にして、これらの絵に幼子が2人(ずつ)描かれている。 1人はイエスで、もう1人は洗礼者ヨハネである。 どちらがイエスなのか、諸説は混乱していると聞けば驚くかもしれない。 私はルーブル版(左)を素直に見て、画面に向かって左がイエスだと疑わなかった。 右側2人の人物が揃って左のイエスを指差(祝福)しているし、聖母はイエスをマントで包むように右手を添えて優しく我が子を見ている。 また右のヨハネは岩の上に直座りに対して、左のイエスは一段高いところに居る。

Virgin on the rocks - Louvre version ←→ London version
ルーブル美術館所蔵

ロンドン、ナショナルギャラリー所蔵
ミラノの依頼主にはこちらが納められた
(見やすくするため、どちらも色調を多少触っています。
絵をクリックしてリンクを辿れば拡大図が見られます。)
Baptism of Christ

ところが、ロンドン版(右)は右がイエスである。 ロンドン版(右)で左の幼子は十字架のようなものを担いでいるが、これはイエスを示すものではなく、洗礼者ヨハネが持つ杖である。 また左の幼子は羊革の腰巻を身に付けているのも洗礼者ヨハネのシンボルである。

たしかに、イエスが両手を合わせ、洗礼者ヨハネを拝んでいるのは違和感がある。 しかしこれは森が正しく指摘しているように、ヨハネから洗礼を受けるイエスの姿に他ならない。 ロンドン版のヨハネの杖や羊革の腰巻はたぶん、これを誤解した後世の加筆であろう。 当初の絵がルーブル版のようにイエスが洗礼者ヨハネを拝んでいるとして、 当時の注文主はそれを諒解できたはずであり、それがトラブルの原因になったとは思えない。

右端人物はどっち?

画面右端の人物は大天使ガブリエルあるいは大天使ウリエルであるともいう。 大天使ガブリエルは、受胎告知をもたらした天使で、『ルカによる福音書』によれば、マリアのイエス受胎の告知に先だって、エリザベトが洗礼者ヨハネを受胎したときも告知している。 大天使ウリエルは旧約聖書、新約聖書の外典で主に活躍し、洗礼者ヨハネとの関係は定かではないが、その守護にあたっているとすれば、ますます絵に向かって右の幼児が洗礼者ヨハネと思える。

天使は人間ではないので、性別を議論してもしかたがないし、彼を女性的な姿に描くのもルネサンス期には珍しいことではない。

しかし、天使に付き物の翼や輪っかはどこへ行ったの? そういったものもルネサンス期になると省略し、自然な人間の姿で描くスタイルが出てくる。 光輪の省略はともかく、翼までももぎ取られると、天使としてのアイデンティティ消失なので、 いちおう描いてあるようだが、目立たない。ルーブル版ではかなり見にくい。 白百合も持ってないし。 そうと聞かされずこの絵をみたら、この人物は誰に見えるだろうか? 聖母子と洗礼者ヨハネ、あと一人ここに置かれるのは? 大天使ガブリエルより先に思い付く人物は、 そう、マグダラのマリアにしか見えない。

ロンドン版でヨハネの杖や羊革の腰巻とともに後世加筆されたと思われるものは、 拡大図でないと分かりにくいが、登場人物の光輪である。 ところが不思議なことに、ただ一人、大天使ガブリエルには光輪が付けられていない。 翼があるからいいかということだろうか?

指の先はどっち?

ルーブル版の大天使ガブリエルが指差して祝福するのは、イエスのようにも見えるし、 「聖母無原罪の御宿り」を奉じるならば聖母の胎かもしれない。 しかし、ロンドン版の大天使ガブリエルの右手は膝の上に置かれている。 大天使ガブリエルが何のためにここに居るのか分からず、 あんた、いったいここに何しに来たの? と問いたくなる。 なんか、よそ見してるし。 これが依頼者の納得した形ならば、それこそが私には謎である。

参考リンク

21 May 2006 (初出: 27 Mar 2006)

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