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イエスの父親は誰か?

Giorgione - Tempest

ジョルジョーネによる『嵐』(Tempesta)と呼ばれている絵。 ベネチアのアカデミア美術館の顔とも言える作品である。 そこに描かれる人物と風景の不可解さなど多くの謎に包まれている。 まずもって主題が分からず、いまもって美術史家たちの議論の的になっているという。 ルネサンス期には異教の神を裸体で描くことが多く、この絵もギリシャ神話などにその主題を求められたが、 しっくり来るものが無い。

あえて私の印象を述べると、画面右は聖母子、マリアとイエスである。 左端の人物はイエスの父親と見るのが素直だと思う。 遺跡らしき基礎の前に立つこの人物は若き兵士の姿をしている。 すなわちこの絵は、イエスが聖母マリアとローマ兵との間に産まれた私生児であったという、 密かに流れる風説を表したものではないだろうか。

処女懐胎を信じる向きからは非難を浴びるかもしれない。 じっさい、イエス私生児説にもとづいたドキュメンタリー番組を2002年にBBCが放映して物議を醸したそうである (世界キリスト教情報 Vol.48 #SKJ628)。 それでは「イエスの父親は誰か?」という質問にキリスト者はどう答えるのだろうか?

クリスマスの時期になると、馬小屋でイエスが誕生した様子をミニチュアで再現する、 イタリアではプレゼッピと呼ばれる、日本の雛人形のようなものが街角や教会に飾られる。 そこには幼子イエスを挟んで聖母マリアと聖ヨセフが並び立つのがお定まりである。 聖ヨセフは福音書のイエス誕生譚と系図に書かれている。 「イエスはヨセフの子と思われていた(ルカ3:23)。 しかしこの聖ヨセフ、クリスマスの時期の他は人気が無い。 それもそのはずで、聖ヨセフはイエスの本当の父親ではなく養父にすぎない。 福音書によれば「神の子イエス・キリスト(マルコ1:1)」とあるではないか。

イエスが私生児であったとしても、 福音書の誕生譚とは矛盾しない。 マタイによる福音書が旧約聖書(イザヤ7:14)から引用するところは 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。…(マタイ1:23)と、 「おとめが」→「身ごもって」→「男の子を産む」という、ごくあたりまえの順序を言っている。 ルカによる福音書の受胎告知も予告なので、それを知らされたときのマリアが処女であっても何の不思議もない。 「あなたは身ごもって男の子を産む…(ルカ1.31)」 と、イザヤ書の「おとめ」をマリアに当てはめているだけ。 順番が狂っているのは、マリアの妊娠とヨセフとの結婚の前後関係だけである。 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった (マタイ1:18)」。 福音書は聖母マリアの懐胎に聖霊の力が働いていると述べているだけで、 処女のまま懐胎したとは私には読めない。

Tempest (detail)

イエスが神から人間世界に遣わされた神の御子であるならば、 そこで介在する人間がマリアであったりヨセフや他の誰かであっても、どうでも良いのではないか。 それが誰であるにせよ、それは聖霊によるものだから。 パウロによれば、 「神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました(ガラテヤ4:4) 。ここで「女から」はイエスが普通の人間と同じように産まれたこと、「律法の下に」はユダヤ人として割礼を受けたということを言っているにすぎない。

ジョルジョーネによる冒頭の絵にも兵士の他にイエスの本当の父は描かれている。 雲間に現れる稲妻、すなわち聖霊である。 ごていねいにも 画面上部右寄り、屋根の上には大天使ガブリエル役のコウノトリまで描き込まれている。

補論もしくは「蛇足」

写真では分かりにくいが、女性の右足先の直下、岩の下に小さな蛇が描かれている。 これを根拠のひとつとして女性をイブ、この絵全体としては「アダムとイブの楽園追放」を描いたものだと Salvatore Settis は主張する (翻訳本)。 ならば幼子は誰なのか? 最初の殺人者であるカインなのか? ならば被害者のアベルもここに居て良いのでは? カインとアベルを失ってから得たセトなのか? 疑問が次々に浮かんでくる。 楽園追放の顛末と蛇の役どころは有名である。神が禁止していた木の実を食べるようイブをそそのかした蛇に、神はこう言った。

お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に私は敵意を置く。 彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。(創世記3:15)

この小さな蛇が狙う「かかと」はイブでなくとも、イブの子孫でも良いのである。 この絵の作者は裸の女性を全人類の母イブではなく、 全キリスト者の母であるマリアとして描いたとしてもおかしくない。 ただ、マリアが原罪から免れていたとする今日のカトリック教義とは異り、 マリアをイブの子孫として原罪を引き継いでいると作者は考えた。 さきに引用した聖パウロの言葉「神は、その御子を女から…(ガラテヤ4:4)を、そう読んだのであろう。 しかしながら、御子は絵では白いシーツにくるまれ保護される。

天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。 だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。…(ルカ1:35)

キリスト教における「原罪」の概念は次のパウロの言葉に端的に表わされている。 パウロ(の時代)には女は無視されていて、神との約束を破った責任はイブではなくアダムが代表する。

…アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 (1コリント15:22)

創世記をパウロは少し誤解している。 アダムが神との約束を破ったから罰として死ぬことになったのでなく、 彼が実を食べたのは善悪を知る木からだけで、命の木の実は食べていないから永遠の命を得ることがなかったのである(創世記3:22など)。 それはさておき、パウロの言う「原罪」はイエスの磔刑によって償われる。 したがってイエスの母がすでに「原罪」を免れているという考えは少なくともパウロには無い。

アダムが受けた罰は 「顔に汗を流してパンを得る(創世記3:19)」 であって、それにしては、この絵の男性の様子がそのアダムらしくない。 男の傍にある途中で折れた柱が、「原罪」により死を運命付けられた人間を象徴しているというのもおかしい。 アダムは930年生きている(創世記5:5)。 それよりも宣教半ばに十字架に死す、この絵の幼子イエスの将来を暗示していると見るほうが合致する。

19 Mar 2006 (初出:1 Feb 2006)
M.Shino

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